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雑記:意識の高さは足元から測った方が方がいいかもしれない。

雑記です。

結論から言うと、「足元を見ることの大切さ」に気が付いたので記録しておきます(前にも似た様なこと書いた気もするけど笑)。

 

花の名前を全然知らない

 今日は天気が良かったので、コンビニで買ったお昼を近くの公園で取りました。その帰に、足元に小さい可愛い花が何種類か咲いていることに気が付きましたが、どれも名前がわからない。いろいろな本に興味をもって読んでいる割には、身近な事を全然知らないことに気が付き、いろいろ思いめぐらせました。

 単なる興味の範囲の問題もあるとは思うんですが、「足元の事を見落としがち」という自分の傾向に改めて気が付いたんですよね。自分を振り返りました。

 

 

自分で考える力が失われていないか

※ここからは完全な持論です。根拠がないので印象で語っています。

 花の名前を調べようと思った時に、まず思い浮かんだのがGoogle検索でした。そこで、ふと「名前だけパッと調べて終わってしまうだけでいいのかと」不安になりました。この「パッと名前だけ知って終わり」という構図が、ひいては組織や集団の中で、表面的なルールや方法(情報)だけが受け継がれる構図と重なり、しかも後者では、何かしらの弊害の原因になりやすいからです。

 

形骸化した風習とその弊害

 例えば、日本の多くの会社には「上司は敬うべき」という風習がありますよね。「士農工商」の名残や、経済成長期の「入社したら老後まで安泰」という考えの影響(役職に取り立ててもらうために上司に取り入る)というのもありそうです。個人的には、インターネットが発達する前では、これらに加えて上司の方が「経験に基づいた重要情報」を持っていることが多く、部下にも敬う点やメリットがあったのではないかと思っています。

 しかし、現代では、社内外のいろいろな情報は比較的簡単に手に入ります。何なら即戦力採用などをしている会社もあるので、部分的に上司の能力を超えた新人が入ってくることもあるでしょう。わざわざ上司の機嫌を取って情報を得るメリットが減っています。

 ここで「上司は敬うべき」という風習だけが残ってしまうと、それに習わない人に対して余計な対立ができます。形骸化した風習だけが残った例だと思います。

 そんな風に考えた時に、先ほどの花の例に戻ると、身近なものに対して生活の中で感じる「季節や気候」「色」「香り」「音」といった感覚をそぎ落として、単に「そこにあるもの」と「名称」をパッと一致させるだけの作業をして生きていくことは、知識の形骸化を増やさないかと心配になったわけです。

 

広がりのある知識の必要性

 例に挙げた「上司」の話と「花」の話は、細かく分けると違いがあります。「上司」の例は、時間的に前後関係の影響があるので奥行きのある知識です。「花」については現時点での周辺との関係性なので、横に広がりのある知識だと思います。いずれにしても、前後または左右の関係と関連付けていくという所に特徴がありそうです。これに対して、Googleでぱっと調べるのは、知識を単純な一対一に対応させる作業だと思われます。

 正直、その場での作業は、一対一の作業の方が単純で楽です。しかし、効率化された手順だけを使い続けるのでは「よく分からないけど、そういうやり方になっている」というパターンばかりが増えていき、ただでさえ私の場合自分で考えるのが苦手なのに、更に自分で考えない人間にならないかと心配になりました。背景や周辺との関係性を知った上で情報を理解する必要性を感じたわけです。

 

 

本質の抽出と共通点の抜粋の違い

 そうはいっても、現代は社会のスピードも速く、情報量も多いので、全ての背景や周辺情報を手に入れるのは無理があります。そこで、「形骸化しているルール」を表面的に使うのではなく、似た様なものごとの背景にある「共通項」を探し、濃縮した情報を応用することで効率化を図る必要が出てくると思います。

 しかし、ここでも次の問題が発生します。「共通項」を探すときに、「本質の抽出」ができるか、単なる「共通点の抜粋」となるかという点です。

 「本質の抽出」の場合、背景や周辺との関係性を踏まえた上で、そこにある意味を見出していくと思われます。「共通点の抜粋」は、ただの項目の発見です。

 例えば、日本の汁物を調べた方がいて、「そうか!毎日の食卓に出がちな汁ものは、芋煮も、豚汁も、西日本のお雑煮も、使われているのは出汁と味噌だ!!つまり、身近な美味しい汁物は、出汁と味噌で出来ている!!出汁と味噌がすべてなんだ!!」と熱く語りだし、あなたに「究極の汁物」と称して、「出汁と味噌」だけの味噌汁を出してきたとしても、正直「何言ってんだ?」という感じですよね。これはただの「共通点の抜粋」でしょう。上に挙げた花の例ならば、必要な情報までそぎ落としてしまった状態です。前後の文脈も、横の関係性もありません。

 これに対して「本質の抽出」では、「どうやら味噌と出汁の利用率が高く、それに加えて相性の良い食材や、ご当地の食材に合わせたアレンジが地域の特色を生み出している。当時の食材保存事情も関係していそうなので、今の保存技術なら、山間部の食材と沿岸部の食材を一緒にしたものも可能かもしれない」と考えると、一歩進んだオリジナルの味噌汁が完成しそうです。「当時の保存技術」が前後関係で、「利用率の高さ(例外も含めている)」や「ご当地」、「相性の良い食材」は横の関係です。全てを一般化するのではなく、あくまでもおいしさの可能性を高めた実用的な一杯ができそうです。

 そして、自分はこれを知識に置き換えました。身近なものごとの背景や周辺との関係性を無視して、得た知識だけで分かったような気になっているのは、「出汁と味噌」だけの味噌汁を作って「究極の汁物だ!」と喜んでいるような気がして、恥ずかしくなったのです。

※例外として、時々、出汁と味噌の質を極めて(共通項の洗練)、それだけでも美味しい(役に立つ)ものに仕上げる人もいます。それでも、その出汁と味噌ベースにアレンジした方が美味しい場合(もっと役に立つ)もあると思うので、ここでは除外しました。 

 

意識の高さは足元から測る

 「意識高い系」という言葉は、頭でっかちな人を揶揄する言葉として聞きますが、自分はこれがあまり好きではありませんでした。「勉強していないよりはしている方がよっぽど良い」という気持ちがあったからです。しかし、この言葉が引っかかってしまっていたのは、行動に移せない自分にとって、図星な部分があったからだと思います。

 意識の高さは目線から上を図るのではなく、地に足をつけて「足元から測る」のが大切なのではないかと改めて考えた今日この頃でした。

 「あぁ、自分はものごとをしらないんだな」と思えるようになりました。やっとスタートラインに立った気がします。せっかく読書をしているので、横への広がりや奥行きのある知識の形成へ向かっていきたいと思います。

 読んで下さりありがとうございました。