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雑記:「エビデンス」で殴るという事。

最近、こういう記事を見つけたのでご紹介。

gendai.ismedia.jp

 

今回は雑記

noteやTwitterに書こうかとも思ったけど、このブログを見てくれる人は、多分情報探しに本屋に行くことがある気がしました。あっちに書くより、こっちで紹介した方が誰かの役に立つのではないかと思ったので、紹介します。

 

きっかけ

知人の発言

 きっかけは、知人が「最近、世間ではエビデンスエビデンスって…何なの?」と不満げに語ったことだった。

 知人の不満は、分かりにくいカタカナ語が蔓延している事への嫌悪感だったのだと思うが、自分には「そういや『エビデンス』ってなんだっけ?」と振り返る機会となった。

 

エビデンスって?

 一応、ざっと調べた感じだと、「エビデンス=科学的根拠」というニュアンスが多い様子。でも、業界によって定義は違うらしい。

 

エビデンスの様々な使い方

 試しにTwitterの検索欄にエビデンスと入れてみた所、各ユーザーが、多種多様な使い方をしていた。単なる「その時の証拠」として「エビデンス」と言う人もいれば、データの証拠を示す際に使っている人もいた。

 

エビデンス」で殴る

 自分はこの記事で、初めてこのフレーズを聞いた。内容的には、著者の説明が分かりやすかったので、引用する。

「私はエビデンスという正しい知識のもとに自分の意見を主張している。しかしあなたの主張にはエビデンスがない(あるいはあなたのエビデンスは間違っている)、だからあなたは私に従うべきだ」というような主張

斎藤清二. (2019) 「エビデンス」で殴るというやり方はなぜうまくいかないのか 講談社 現代ビジネス  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66820 

  まさに、相手を倒すために「エビデンス」を使うという感じ。

 

自分も「エビデンス」で殴っていた

 Twitterの検索時に多く目にしたのは、誰かの意見や記事に対して「それってエビデンスあるの?」と議論を吹っ掛けているツイートだった(冷静な議論でも、専門的な話題でもなく、単にぶつけている感じ)。

 自分が入門しているDaiGoチャンネルでも、「エビデンス」が重視されている。その影響もあって、自分も、一個人の経験に対して冷静な目線を向けることが多かった。

 例えば、年長者の「俺はこうして成功した!」とか「昔はこうだった!」などの意見に対してである。そういう意見や怪しい話を聞くごとに、分かったかのように「個人の経験でしょ?」とか「エビデンスあるの?」と思っていた。自分は、昔から口下手で、周りに言い負かされることが多く、その悔しさの反動として「議論に勝つための武器」を手に入れた喜びがあったのだと思う。

 しかし、これだけ周りの人が、いちいち「それエビデンスあるの?」と聞いているのを目の当たりにすると、流石に少し引いてしまった。また同時に、分かったかのように得意げに「エビデンス」という単語をブンブン振り回していた自分にも気づき、非常に恥ずかしくなった。

 そんな時に、この記事を見つけて、「なるほどなー」と思った次第です。

 

 

エビデンスとの付き合い方

エビデンスは万能なのか

じゃあ、エビデンスとはどう付き合ったらいいのか?

この記事ではエビデンスについて以下のように説明していた。

エビデンスを持ち出せば、全てがうまくいくというのは明らかに幻想である。

同記事  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66820 

エビデンスがあるからといってその効果は人それぞれ違う

同記事 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66820?page=2

  うーん、耳が痛い(苦笑)結論から言うと、万能ではないようだ。

 考えたら、DaiGoチャンネルでも、コメントに時々「自分には当てはまらない」と流れてくることがあるし、DaiGo氏自身もそれに対して、全体に当てはまる有用な情報を提供しているので、個々人への効果の違いには対応していないような事をちゃんと言っていた。

 それに、これは個人的な見解だが、エビデンスとしてデータを提示しても、そのデータが合っているとは限らない。それをチェックするには統計などの情報処理の知識がいるので、手間ではある。しかし、論文や書籍を鵜呑みにして引用しただけでは、中学生くらいがいう「○○先輩が○○って言っていた。マジ、あの先輩パネェから。」と然程変わらない。自分でデータを検閲して、取捨選択する力も必要なのだと感じた。

 

エビデンスを用いた医療の話

 著者は医師なので、エビデンスを重視した医療について以下のように説明してる。

「確実なもの」をもちこむのではなく、あくまでも医療の不確実さにできる限り挑戦しようとするものである。

同記事 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66820?page=3

 また、次のようにも説明している。

「できるだけ有用なエビデンス」について論じることには意味がないのだろうか? そんなことはない。個人の意思決定と集団の意思決定の両方を視野に入れた場合、最も重要なことは、「個人の経験を過剰に一般化してはならない」という原則である。

(中略)それを一般的なものであるかのように集団にそのまま拡張しようとすることは明らかな誤りである。

同記事 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66820?page=4

 上の引用は、著者の仕事範囲である医療について書かれた部分ではあるが、なるほど、これは全体的に言えることのように感じた。

 恐らく、本来、エビデンスとは、論理的弱点を突いて相手を言い負かすために使うものではなく、互いの感情論だけでものごとが変な方向に進まないようにし、できるだけデメリットを減らし、サービスを提供する相手へのメリットを増やすために使われるべきものなのだろう。

 自分はこの記事を読んで、ノーベルが発明したダイナマイトを連想した。ダイナマイトは、トンネル工事の安全化に貢献した後で戦争に使われており、ノーベルも悲しんだと聞いたことがある。エビデンスについても、なんだか似た様な印象を受けた。

 

まとめ

 今回はエビデンスに関する記事についてまとめてみた。

 エビデンスが全部において良いとか悪いとかではなく、「全部は説明できないけど、一つのものごとを全部に当てはめるのも危ないから、できるだけ被害を避けるためにエビデンスを使おうね。」という事なのだと思った。確かに、一個人の経験やモノの見方だって、それにオリジナリティがあれば、新しい発見になる事もあるだろう。要は「エビデンスの使い方次第」という事なのだと思う。最近、あちこちでエビデンスと言う単語は聞いていたし、自分も使っていたが、エビデンスに対する姿勢を見直すきっかけになった。

 それに、いちいち、自分の意見を言うのに根拠を持ってこないとだめでは、超完璧主義社会化し、日常会話が裁判となってしまうので…。

 

 ここまで読んで下さり、ありがとうございました。